産経新聞 葛城奈海 直球&曲球(平成27年)
サイパンを忘れないで来てください
「助けてください」。日本語と英語でなんども繰り返された言葉が、耳から離れない。
先月末、北マリアナ諸島・米自治領のサイパン・テニアンを訪れた。日系航空会社・ホテルの撤退で日本人が激減し、同地域との絆が細くなったことに危機感を抱いた方の発案による戦跡慰霊の旅だった。帰国翌日の紙面でサイパンの慰霊関連施設への嫌がらせが相次いでいることが報じられていたが、まさにその現場を目の当たりにもした。
肌を焼く日差しの下、島のあちこちでおびただしい艦砲射撃の跡や鉄さびた戦車を見、先人たちが最期を遂げた洞窟や崖を巡った。エメラルドグリーンに輝く海と、かつてそこで起きた出来事とのギャップが切なかった。
84歳の今も背筋がしゃんと伸び、健康的かつ知的な印象を受ける元観光局会長、現在も経済界の重鎮として活躍するデヴィッド・サブラン氏に話を聞いた。日本の委任統治領だった戦前戦中と公学校で5年間学んだ同氏は、毎朝、北に向かって最敬礼したのち30分間の体操をしていたことが健康のもととなり、米領になった戦後もソロバンが身を助けてくれたという。
「マイ・メンタリティ・イズ・ジャパン」。そう語るサブラン氏は、戦後60年だった10年前、天皇、皇后両陛下のサイパン訪問を阻止しようとデモを行った韓国コミュニティーに、「やめろ。さもなければ、お前たちが出て行け!」と決然たる態度を示した方でもある。こうした尽力に支えられ、両陛下は無事慰霊の旅をまっとうされた。
日本人が激減するのと入れ替わるように急増した中国人はマナーが悪く、地元の人は内心嫌がっているが、政治家らと結びついているため口に出せないという。
「助けてください」とは、日本人にまたサイパンに来てくださいという意味だ。その切なる願いは、単に経済的なことではなく、精神的に忘れないで絆を切らないでという、兄を慕う弟の悲痛な叫びに思えた。かつて結ばれた絆は、先人たちの生き様の証でもある。それを僅か70年で忘れるとしたら、危ないのは、むしろ日本の方なのかもしれない。
*産経新聞【直球&曲球】27/12/10より
「たかが漂着ゴミ」と侮るなかれ
海に囲まれ、7000近い島々を持つ日本。海水浴場や観光地には美しい浜辺や断崖が続くが、あくまでそれは表の顔。人の手が入りづらい浜や入り江に一歩足を踏み入れれば、漂着ゴミが散乱し、目を覆いたくなる光景に出くわすことが少なくない。
10月12日、八重山環境ネットワーク主催の西表島鹿川湾での清掃活動に参加した。鹿川湾には陸路が繋がっていないため、年に一度、同島の住民は漁船で、隣の石垣島からは海上保安庁が巡視艇でボランティアを運んでいる。
ジャングルに囲まれた入り江にひっそりと広がる白い浜とエメラルドグリーンの海は、一見「南国の楽園」そのものだ。海上から一望しただけではゴミもさして目に付かない。しかし、上陸し木々の根元や河口に分け入れば、ペットボトル、プラスチック、発泡スチロール、漁具のブイ、漁網などあるわあるわ…。なによりやっかいなのは、打ち上げられた海藻に絡み付いた細かく砕けた無数のプラスチック片だ。えり分けての回収は気の遠くなるような作業で、砕けないうちに回収する必要性を痛感する。
漂着ゴミを単に景観上の問題と捉える人も多いだろう。が、ことはそれほど単純ではない。日差しや波で溶け出した環境ホルモンは、土壌や海水を汚染する。また、細かくなったものほど魚などが餌と間違えて食べ、消化されないため満腹なのに栄養不足で餓死したり、体内で溶けた環境ホルモンが遺伝子に作用、それをヤマネコや人間など食物連鎖上位の生物が食べたりと、しっぺ返しともいうべき形で人間にも繋がっている。
いかにゴミを減らすか。ポイ捨てなど言語道断だが、悪気がなくても災害がくれば大量のゴミが出る。日頃から、風で飛ばされるものを屋外に放置しない配慮も大切だ。より本質的には、社会のあり方そのものが問われているのではないか。物を生み出す際には終末段階まで考慮し、極力自然に還る物を作る。目先の利便性よりも、社会を持続可能なものにすることにこそ叡智を結集すべきであろう。大いなるヒントは日本人が受け継いできた文化の中にこそあるはずだ。
*産経新聞【直球&曲球】27/11/15より
「歴史の証人」を多くの国民の目に
市ヶ谷記念館をご存知だろうか?
防衛庁(当時)が六本木から市谷に移転するに当たり、市ヶ谷台の中央にあった1号館を取り壊すことになった。かつて陸軍予科士官学校、大本営が置かれ、戦後、米軍が接収、極東国際軍事裁判の法廷となり、昭和35(1960)年から自衛隊が使用してきた威風堂々の建造物である。
なんとか残そうと保存運動が起こった。中心的存在のひとりであった元参院議員の堀江正夫氏によると、ひとつには東京裁判の実態を知らないと日本人がいつまでも誤った認識に支配されてしまうことへの危機感、もうひとつには明治以来の陸軍の歴史を残したいという思いが運動へと駆りたてたという。
結果、東京裁判で法廷となった「大講堂」、三島事件の現場となった旧「陸軍大臣室」、天皇陛下の控室だった旧「便(びん)殿(でん)の間」という象徴的な部屋と「車寄せ」が、可能な限り元の部材を用いて市ヶ谷記念館として移設・復元された。
防衛省では、平日の午前・午後のそれぞれ事前申し込み制で、この記念館をはじめ省内を案内する市ヶ谷台ツアーを実施している。
平成13年から数年間、私はそのガイド役を務めていた。玉座の天皇陛下が2階席から見下ろされている印象を受けないように工夫された設計、足になじむように配慮された陛下専用の階段、三島事件の際についた刀傷など、まさに歴史を体感でき、映像や展示品とも相俟って東京裁判の様子も生々しく伝えてくれる。人けのない静まり返った館内にいると先人達の霊魂がそこにいるように感じられることもあった。
しかし残念なことに、市谷に勤める自衛隊員でも訪れたことのない人が多いのだ。ましてや、平日の昼間のみの公開で一般社会人には参加しづらい。日本の歴史に他に類を見ないほど決定的な影響を及ぼした裁判の舞台である。その重さに比して、存在があまりに奥ゆかしすぎないか。
それはまた、東京裁判の実態を直視しようとしないことの表れではないのか。記念館を防衛省の管轄から出し、土日祝日も公開して、多くの国民が訪れられるようになることを望む。
*産経新聞【直球&曲球】27/10/15より
リスクに臆さず実践的な訓練を!
8月末、陸自北部方面隊と北海道の共催で5日間に渡る災害対処演習「ノーザン・レスキュー2015」が行われた。期間中に開催され、私が司会を務めた「防災セミナー」も大変有意義であった。基調講演では、北海道大学谷岡勇市郎教授が最新技術を紹介しながらも、技術に依拠しすぎる危険性を、宮城県南三陸町の佐藤仁町長が東日本大震災の凄烈な体験から得た数々の教訓を語った。
お二人に元東京都災害対策担当参与の志方俊之、東日本大震災時の自衛隊統合幕僚長、折木良一、北海道危機管理監、佐藤嘉大の各氏を加えたパネルディスカッションでは、それぞれの知見を踏まえ自治体と自衛隊、関係防災機関の連携をテーマに突っ込んだ議論が展開されたが、中でも印象深かったのが、図上訓練や小規模訓練を何度繰り返しても見えない具体的課題が浮き彫りになる大規模な訓練、夜間や降雪期などより困難な状況での訓練といった実践的訓練の必要性だ。
議論が煮詰まるにつれ、「事故の可能性を考え自治体はつい二の足を踏んでしまう」という本音も漏れた。これは自治体に限らず、いわゆるお役所が抱える共通課題でもあろう。例えば、私たち予備自衛官も訓練中に幾度となく「健康状態に異常ある者?」と訊かれる。あまりに頻繁だと「幼稚園児じゃないんだから」と突っ込みたくもなるし、何かあった場合に「管理者側はちゃんと確認していた」というアリバイ作りなのではと思えてくる。
誤解を恐れずに言えば、これは日本全体を覆う「目的のためには一定のリスクを冒すことも辞さない」という覚悟の希薄さの表れなのではないか。些細な事故やけがを国民が大げさに騒げば、行政側にも「訓練がつつがなく終わりさえすれば成功」という空気感を醸成してしまう。安全を軽視せよと言っているわけではない。が、仮にひとりふたり負傷したとしても、いざというとき、その経験によって何千人の命が救われるとしたら、やはりその訓練は実施すべきなのだ。行政にも国民にも、リスクに臆さない腹づもりが求められている。
*産経新聞【直球&曲球】27/9/17 より
自衛隊の過度な自己規制いつまで
毎年8月15日に制服で靖国神社に参拝している自衛官有志がいる。「国防に任ずるわれわれが国難に殉じた先人たちに感謝の誠をささげ、御(ご)遺志を継承しようとするのは当然」として堂々と制服での参拝を呼びかけてきたのは、陸上自衛官の原口正雄曹長だ。
きっかけは、昭和61(1986)年、時の中曽根康弘首相が中国の干渉で参拝を中止したことに始まる。義憤にかられた有志4人が、ならば自分たちがと制服での参拝を開始した。爾来(じらい)、隊内に参拝を快く思わない風潮がある中、参加者は増減を繰り返し、時にはたったひとりきりの参拝に拳(こぶし)を床に打ちつけ、悔し涙を流したこともあった。
終戦70年を迎えた今年、原口曹長の熱誠に応えた自衛官は、過去最高の約50人。順調に数を伸ばしたかに見えて、その実、「制服を着て靖国には行かないように」「15日には私服でも行かないように」と上官から「指導」されたり、仁王立ちで阻まれたりした隊員もいた。私は陸自の公募予備自衛官でもあるが、自衛隊に働く過度な自己規制を感じることがある。軍手を「手袋」、行軍を「行進」と呼ぶと聞けば、一般人には、むしろ滑稽に響くであろう。
世界を見渡しても、戦没者の慰霊に軍人が制服を着用せよとはいわれても、するなといわれる国などそうそうあるまい。憲法9条に起因するのだろうが、いつまでもこんないびつな国のままでは、先人たちに顔向けできないばかりか、次世代にも不健全な精神的負担を負わせ続けることになる。そうしたくなければ、勇気を持って自ら新しい時代を切り開いていくしかない。
もはや自衛官が税金泥棒呼ばわりされる時代ではない。被災地等での献身的な活動は国民意識を変え、私が宮城県で取材した女性は「あの緑色を見るだけで安心する」と語った。自衛隊はいつまで過度な自己規制に縛られるのか。
原口曹長は、境内が陸海空の制服自衛官であふれる日を切望しているという。圧力に屈せず信念を貫いた自衛官に敬意を抱きつつ、彼らが誰はばかることなく靖国に詣でられる世をつくるべくわれわれ国民も尽力せねばなるまい。
*産経新聞【直球&曲球】27/8/20より
憲法に守られた平和」という幻想
『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』(今年1月内閣府)をめくっていて、「もし日本が外国から侵略された場合は?」というページではたと手が止まった。「一切抵抗しない(侵略した外国の指示に服従し、協力する)」が、5・1%もいるではないか!
想像力の欠如もここまで来ると恐ろしい。奴隷でもいいというなら、その尊厳のなさにがくぜんとするが、おそらくは意識下に無抵抗なら命は保証されるという子供じみた甘えがあるのではないか。しかし、強制収容、拷問、虐殺…そうした戦慄すべき事実は、今この瞬間も世界各地で繰り返されている。「一切抵抗しない」方には、自分や自分の大切な存在ののど元に刃(やいば)が迫る場面を真摯(しんし)に想像していただきたいと切に思う。
回答を男女別で見ると、女性は6・6%と男性3・3%の倍であった。これで思い出したのが、自衛官募集担当者の「安保法制論議の影響で、志願者が激減している」という言葉だ。母親たちが「危ないから」と止めるらしい。
国会での自衛官の危険が増す云々(うんぬん)の議論も、むなしさを禁じ得ない。そもそも事に臨んでは危険を顧みず国民を守ると宣誓しているのが自衛官だ。だからこそ尊いのだ。より重く論じられるべきはむしろ国民の安全であるはずだ。
多くの国民が長く「憲法に守られた平和」という幻想に陥ってきた中、その欺瞞(ぎまん)を骨身にしみて感じてきたのが拉致被害者のご家族であろう。
予備役ブルーリボンの会が先般開催したシンポジウム「拉致被害者救出と自衛隊」で、あるご家族が「自衛隊が動くことで隊員さんの命がかかると思うと申し訳ない。その一方で、一国民としては『平和』な日本で拉致がまかり通るのはなぜと感じる」と思いを吐露された。これに対し荒谷卓(あらや・たかし)・元陸自特殊作戦群長は「1人助けるのに仮に自衛官10人が死んだとしても、それは作戦と技量が未熟なだけなので、気にされないように」と答えた。また、アンケートには、自衛官の妻から「お役に立てるなら、家族は喜んで送り出します」ともあった。前述の無抵抗派や母親らに聞かせたい。
*産経新聞【直球&曲球】27/7/23より
安保法制論議、拉致被害者救出には一言もない
「少なくとも数人は帰ってくるのでは」と、日本中の期待を集めた日朝のストックホルム合意から丸1年がたった。結論は周知の通り、政府認定の拉致被害者、特定失踪者の誰ひとりとして帰国は実現していない。再調査のための特別調査委員会を設置したことを評価して、日本は制裁の一部を解除したが、またしても北朝鮮に弄された感は否めない。「最後のチャンス」と、すがるような思いで推移を注視していたご家族の落胆はいかばかりであろう。
ここへきて、そのご家族の傷に塩をすり込むように思えてならないのが、安保法制論議だ。「切れ目のない法整備」を謳(うた)い、11もの法案を並べながら、拉致被害者救出に関しては与党も野党も一言もない。在外邦人の保護については当該国の同意が前提となっているが、北朝鮮が自衛隊による拉致被害者救出に同意するわけもない。
かつて安倍晋三首相は、「いざとなったら米国に頼むしかない」と語ったが、筆者が予備役ブルーリボンの会で活動を共にしている自衛隊の特殊部隊OBは、「対米協力と同じくらいの熱意を持って、自衛隊による拉致被害者救出を可能とする法的根拠を示せば、自衛隊はその準備に鋭意取り組むだろう」という。にもかかわらず自国民を守ることをいつまでも米国頼みにしていては、独立した国家として情けないではないか。現行法で自衛隊を使えないというなら、今こそ法整備の好機であろう。議員のブルーリボンバッジは、まやかしか。
当会では北朝鮮工作員侵入・拉致シミュレーションを実施したことがあり、筆者はその被害者役を務めた。言葉巧みに注意を逸(そ)らされた隙に引き倒され、手足を縛られ、猿轡(さるぐつわ)をはめられ、麻袋をかぶせられた。全身砂だらけになり口の中には血の味がした。何の罪もない国民がある日突然このようにして連れ去られ、以後何十年も意に反した人生を異国で送っているという事実には、どう向き合うのか。
これからの危機に備えることはもちろん大事だが、既に現存する安全保障問題をこそ、まずは直視してもらいたいものである。
*産経新聞【直球&曲球】27/6/25より
激増するシカ、活用の機運を作っていこう
「シカを殺すなんて、かわいそう」。女性を中心にそんな声は多い。確かに、むやみに命を奪うというならとがめられても仕方ない。が、ご存知だろうか。今、日本の山では、激増した野生のシカによる苗木や樹皮の食害で林業が脅かされているばかりか、下草が失われ、ひどい場所では表土が流出して国土が荒廃していることを。
原因は①オオカミの絶滅やハンター減少による天敵の減 ②人の手が入らない里山の増加によって奥山からシカが出てきている③温暖化に伴う降雪減による冬を越せるシカの増加―などが考えられている。
環境省によると、北海道を除くシカの数は、四半世紀前の約十倍の約261万頭(平成23年度)。これが37年度には約500万頭に増加すると推定されている。私自身、シカが好まない植物だけが残った森林や、皮を剥がされて無残に白い幹を曝す木々を全国各地で目にしてきた。
確かに、あのつぶらな瞳で見つめられれば、私だって「かわいい」と思う。しかし、情に流されて手をこまねいていれば、生物多様性は失われ、禿山だらけになってしまうかもしれない。事は急を要する。
もうひとつ大きな課題がある。現状では撃たれたシカの多くが山に埋められているのだ。搬出するだけの労力がない、首から上を撃たないと(食肉として)おいしくない、流通には相応の冷蔵・加工施設が必要等々の理由があるが、命を頂いた立場としては、いかがなものか。短期的にはやむをえないとしても、こうした山の現実を国民も共有し、官民挙げての取り組みが必要なのではないか。感謝と畏敬の念とともに山の恵みを頂くという、日本人であれば根源的な自然への向き合い方を忘れるべきではないだろう。
鳥獣保護法を改正するなどして、国もようやく重い腰を上げつつあるが、国民の側からも積極的に肉は食材、革は印伝(シカやヒツジの皮をなめしたもの)などとして利・活用する気運を作っていこうではないか。なにはともあれ、特に食わず嫌いの方は、まずは一度恵みの味をご堪能あれ。
*産経新聞【直球&曲球】27/5/28より
「八紘為宇」という建国の理念
先月16日の参院予算委員会で自民党の三原じゅん子議員は「八紘一宇」について「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と述べた。日頃、「八紘一宇」のルーツである「八紘為宇」こそ日本が取り戻すべき理念だと考えていた私からすれば、まさに我が意を得たりの発言であった。
かくいう私もこれを「好戦的なナショナリストのスローガン」だと思い込んでいたひとりだ。それが、初代神武天皇の「橿原建都の詔」を学び、「天の下にひとつの家のような世界を創ろう」という原義を知るに及んで、己が先入観と不勉強を恥じた。
拉致問題ひとつとっても、被害者を「自分の家族」として痛みを分かち合えるのなら何十年も見捨てたままになどできないであろう。この広大な理想の対象は日本国のみに留まらない。
先の大戦で渋谷健一特攻隊長は、幼い娘たちに「世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強することが大切なり」と書き遺している。われわれ日本人は他者を蹴落としてでも自分さえ勝てばいい、他国を踏み躙っても自国さえ繁栄すればいいといった考え方を良しとしない。日本人のDNAにはこの壮大な理念が埋め込まれているのではないか。
だからこそ、欧米列強の強圧的な植民地支配とは対照的な、アジア太平洋諸国での統治が、先般の天皇、皇后両陛下のパラオご訪問でも示されたような現地の人々の熱烈な親日感情を育んだのであろう。
戦後70年の今こそ、日本人が自ら受け継ぐこの宝のような価値観を自覚し、そこに立ち返ることが、弱肉強食の世界を「強者が弱者を助け共に生きる世」へと導く鍵になるように思えてならない。
「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」とは、極論すれば「八紘為宇」という建国の理念を取り戻すことではあるまいか。
三原発言へのGHQ史観そのものの批判にはまず勉強をと言いたいが、保守層にこれを擁護する動きが希薄だったのも残念だ。議員の経歴を理由に同発言を軽視する輩には、そうした「色眼鏡」こそ戦後体制を延命させてきたことを肝に銘じてほしい。
*産経新聞【直球&曲球】27/4/23より