尖閣レポート 平成 23 年秋 大正島・久場島編その②
2012.6.6
石垣から11時間かけてようやくたどり着いた大正島
16 時。気分を改め、西へ 80km のところにある久場島を目指す 。 穏やかだった天候が崩れ、雨が降り、波も荒くなってくる。とはいえ、体もだいぶ慣れてきて、時折頭はぶつけつつも、周期的な揺れが馬に乗っているようで、ちょっとばかり楽しくなってきた。
16 時 20 分。衛星電話が鳴った。電話は、船長の足元、私の右斜め後ろに設置されている。エンジンの音が煩いため、位置関係からしていつも最初に気がつくのは私だ。受話器をとると、最初ちょっと聞きづらかったが、「巡視艇みずきの○○です。(名乗ってくれたようだが、聞き取れなかった)」
「だいぶ荒れてきましたけど、大丈夫ですか?」
「良福丸から、無線が通じないということで伝言です。『魚釣島南の海域を目指してください』」
「魚釣島の南の海域ですね。了解しました。ありがとうございました」
そのまま大声で船長に伝える。
久場島で待ち合わせる予定だった良福丸。待ちくたびれて魚釣島に移動したんだろうか。それとも、波が高くて久場島には向かえなかったんだろうか。そのときは判然としなかったが、後に、そもそも久場島には行っていなかったと判明。地元では魚釣島をクバ島と呼ぶ。クバの木が多いからだそうだが、なんともややこしい。それで勘違いしたのかもしれない。
波しぶきに霞む窓の向こうに、途中 2 度航空機を見た。一機目は海上自衛隊の P-3C 哨戒機だったように見えたが、二度目のはもう少し派手な機体だったような気がする。が、確認する間もなく、厚い雲に吸い込まれていった。
17 時 20 分。久場島到着。南側をゆっくりと通過する。米軍の射爆場だったというから荒涼とした島を想像していたのだが、予想に反し、緑に覆われたたおやかな姿をしていた。水も出そう。魚釣島に上陸経験もある山本皓一さんによると、人が植えたクバの木がずらりと並んでいるのが見えるし、畑だったような四角く草地になっている場所もある。水際はほとんど岩だったが、一か所上陸できそうな小さな砂浜が目に入った。
17 時 40 分。「あと 30 分で暗くなるよ」と吉本船長に促され、帰路につく。明るいうちの合流は叶わなかったが、魚釣島は帰り道とのこと。良福丸と出会えることを期待しつつ先を急ぐ。
18 時。あっという間に暗くなった。空腹を覚え始めたが、食糧の入った段ボールのある後部船室は、揺れのせいで僅か 4 ~ 5m 程が、精神的には 400 ~ 500 mも離れているように感じられてしまう。しかも、途中には大きな段差あり、横たわる人あり、散らばる荷物ありで、おいそれとは取りに行く気になれないのだ。と、後部からにょきっと腕が伸びてきてアーモンドチョコが差し入れられた。直也君からだ。なんという絶妙なタイミング! 17 歳ながらにして流石海の男、船上の人の気持ちを知り尽くしている。
-第一桜丸で釣りをする17歳の漁師、直也くん
20 時。真っ暗だった海にいくつかライトが見えた。良福丸かと思い接近していくが、なかなか近づけない。そのうちに、光が大きくなり、我々よりもずっと大きな船だと判明。中国船かと色めきたつ水島さんら。が、大きな探照灯の光に見覚えがあった。そうだ、以前チャンネル桜の映像で見た水産庁の船に違いないと思い、「水産庁じゃないですか?」と一言。その場では確証は持てなかったが、後に煙突に示されたマークから確認がとれた。
-大正島の前で水島さんと
帰路は追い風だから、「飛ばし屋」と噂の吉本船長(「あの人は、エンジンふかせるだけふかす」と砂川船長談)は飛ばすんだろうなと思いきや、 15 ノットくらいでなんだかゆっくり走っている。(実は、このとき後部に若干の浸水があったことを後に知った。)日付が変わる前に帰れるかと思っていたが、どうやらそうもいかなそうだ。
再び、しばらく闇の中を走っていたが、両サイドに島の灯りが見えてきた。左は石垣、右は西表か。携帯電話の電波が久々に届くようになり、早速陸で待つプロデューサーのなべさんこと渡辺さんから衛星電話が入った。「今、どの辺?」「あと 1 時間くらいです」「もうちょっと近くなったら連絡ちょうだい」。心配しながら、待っていてくれたのだろう。
お腹がすいたので、申し訳ないと思いつつ、後部船室からパンの入った段ボールをリレーしてもらう。コーヒーロールを 1 つ食べたら、空腹は収まった。揺れているので、まだ缶コーヒーを飲む自信はない。以降、甘いものがほしくなったときは、足元に転がっている 2l ボトル入りの甘い紅茶で慎重に喉を潤した。一日、飲料は基本的に持参した 500ml の水 1 本にプラスして、その辺にあるものをちびりちびりと摂取していただけ。お茶のボトルは 2 度にわたって、顔にぶちまける羽目になって、懲りた。こんな場所でこそ、トレイルランのときに使うキャメルバッグ(ホース状のストローをくわえて給水するバッグ)が威力を発揮しそうだ。
-釣った魚を手際よく捌く吉本船長と直也くん
「あと 30 分」のところで、なべさんに電話し、最終的に入港するのが登野城(とのしろ)漁港であることを伝える。良福丸も近くを走っていると聞いて、ちょっとほっとする。
なんども頭をぶつけてきた鍵を外し、初めて左前の窓を開けた。風が心地よい。石垣島の町の灯りの上にも、灯りがあることを発見。星だ! ずっと天気には恵まれなかったので、よもや星空を見上げられるとは期待していなかったが、少し身を乗り出すと、なんと行く手にはオリオン座が輝いていた!
25 時 40 分。漁港が近付いてきたところで、船長たちが甲板に出て操縦を始めたので、私も外に出る。水島さんを見ると、昨日買ったツバ広の麦わら帽子を顔にかけ、チェアで眠っているようだ。もう少しそっとしておこう。とりあえず、ひとりでレポートをと思い、カメラに向かって喋っている最中にパラパラと雨垂れが落ちてきた、……と思う間もなく、土砂降りになる。開いていた窓から吹き込んだ雨に、船内のものもびっしょり。合羽を上しか着ていなかったので、私の下半身もぐっしょり。嗚呼。
-揺れが激しい時にいつもつかまっていた窓枠
登野城漁港に返る。ヘッドライトを照明代わりに、なべさんが車で迎えてくれる。とにかくバケツをひっくり返したような雨になってしまったため、吉本さんや直也君への挨拶もそこそこに後ろ髪惹かれつつ、車に乗り込んだ。
いったん、ホテルへに荷物を置き、タオルだけ持って、良福丸を迎えに八重山漁港へ。既に接岸していた良福丸は、魚釣島沖で 2 時間ほど漁をし、 1m を優に超すサワラ 3 尾、イソマグロ 1 尾、カツオ、キハダマグロなど 10 数尾の見事な釣果を上げていた。金城さんによると、入れ食いだったそうで、「こんなのはこの辺では釣れないよ」と尖閣の漁場としての豊かさに赤銅色の目元をほころばせていた。
今回の経験を通じて実感したのは、漁師たちも口々にその必要性を訴える避難港、無線基地の重要性だ。
絶海の孤島である尖閣諸島は、ひとたび海に出てしまえば、帰港するまで逃げ場がない。石垣から片道 170km 、燃料代もバカにならないため、採算が合うように、一度出たら 2 泊 3 日程度の漁をするケースが多いという。停泊は波の穏やかな魚釣島南側などを利用するものの、「おろし風」という強風により、いつのまにか島に吸い寄せられたり、ひどいときには錨を下ろしていても切れてしまったりすることがあるそうだ。私たち自身も 23 時間近く波に弄ばれ続けて、羽を休める場所がないということがいかなることか、身をもって味わった。
また無線基地についても、僚船である良福丸と連絡がとれなかったことにより、図らずも、その必要性を体感することになった。海保が衛星電話で中継してくれたからよかったものの、そうでなければ、互いの身を案じつつも私達は最後まで一度も連絡を取り合うことができなかったはずである。
避難港、無線基地の整備は急務であろう。
-緑豊かでたおやかな久場島