パラオ戦跡慰霊の旅
葛城奈海
72年前の11月24日、ペリリュー島守備隊長であった中川州男大佐が自決し、日本軍が玉砕した。その日を前にした平成29年11月上旬、戦跡慰霊のため、パラオを訪れた。
11月5日、拠点となるコロール島から南へ約50kmに位置するペリリュー島へとボートで向かう。途中、エメラルドグリーンの浅瀬に沈む零戦を見た。台風などにより、風化が進んでいるという。
約1時間後、「あれがペリリューだよ」と指された島影に、目を疑った。来る前に、ペリリュー島での戦いを描いた『天皇の島』(児島?著)を読んでいた。そこで漠然と想像していたのとは比較にならないほど小さく、扁平な島だったのだ。面積、僅か約13?。
米軍が「スリーデイズ、メイビー・ツー」と豪語し、三日で落とせると思ったのも無理はない。兵力約4倍、火力数百倍という圧倒的な戦力差にもかかわらず、ここで74日も持ちこたえたなんて人間業とは思えず、先人達の成し遂げた事実に驚愕した。
島の北端にあるノースドッグに上陸。その際使用したささやかな浮き桟橋は、日本の援助で作られたものだった。コロール島のホテルでは、英語に並んで中国語が表記され、テレビも米中両国のチャンネルしかなかったこともあり、日本とパラオの国旗が並んだ案内板にちょっとほっとする。
宿に荷物を置き、日本人ガイド「あやさん」自らが運転するワゴン車で、まずは千人洞窟へ。
隆起珊瑚礁の洞窟をツルハシで掘り進め縦横に拡張したこの洞窟は、ところどころに小部屋のようなスペースがあったが、通路の高さはかろうじて立って歩けるくらい。腰を屈めなければ頭がぶつかってしまうところもあった。中には、瓶などがたくさん残っており、「キリンビール」と書かれたものも。飲んだ後は、水を貯めるのに使っていたそうだ。
日差しが遮られ入った瞬間はやや涼しく感じたが、懐中電灯の灯りを頼りに奥へと進むにつれ、湿度が高く、次第に汗が滲んでくる。崩れた岩がゴロゴロしているところを乗り越え奥へと進むと、小さなコウモリと肉付きのいいカマドウマがたくさんいて驚いた。
洞窟脇には、城壁のように射撃のための穴が開けられた壁も築かれていた。
続いて、通信司令部跡へ。カマボコ隊舎が併設されていた以外は、2年前に訪れたサイパンの同施設と構造、間取りとも酷似している。
第二次世界大戦博物館は、元は日本軍の弾薬庫、占領後は米軍の病院として使われていた建物だった。外観の風化は進んでいるが、中は冷房もきき、ショーケースに展示物が整理されている。
ペリリュー島の戦いは、日本軍9838人に対して米軍約4万2千人で始まり、日本軍は最終的に1万22人の戦死者と446人の戦傷者を出して玉砕。米軍も1684人の戦死者と7160人の戦傷者を出した。
この激戦を生き延びた日本兵が34名おり、そのうちの一人、土田喜代一さんによって寄贈された「タイヤで作ったサンダル」が目を引いた。これを履き、珊瑚礁の岩を歩いて米軍から食糧などを盗んで命を繋いだという。
館内では当時米軍によって撮影された動画も上映されていて、戦いの激しさの一端を知ることができた。
南西にアンガウル島を望む平和記念公園の西太平洋戦没者の碑で、慰霊祭を行った。
今回の旅の企画者である藤田裕之氏が神事を行い、不肖葛城が龍笛で君が代を吹奏、最後に参加者の樫村保貞さん、知久和弘さんも含めた全員で「海行かば」を斉唱する。朝はぐずついていた天候も回復し、爽やかな空と海を臨みながら、海風に吹かれて祭典を行うことができた。
戦後60年だった平成17年に天皇皇后両陛下がパラオに慰霊に訪れられた際、ご休憩所として作られた建物がある港でお弁当を食べ、午後はまず、中川州男大佐終焉の地へ。
線香を手向けて仏式で慰霊を行い、樫村さんが持参した水戸のお酒で献杯する。守備部隊の中心は水戸の第二連隊。ご英霊も喜んでくださったのでは、あるまいか。
そばの洞窟(自決された洞窟そのものではないそうだが)に、ひとり入ってみた。少し奥に進んだだけで外光は届かなくなり、漆黒の闇。ライトを消し、しばし瞑目した。
食糧も弾薬もなくなりながら、このようなところに潜みつつ戦い続けることの壮絶さを想った。一日でも長く持ちこたえることが国の守りに繋がると信じ、自らの体を餌にして、米軍を引きつけ続けた。最後の最後まで命を使い切った見事な生き様、死に様であったと思う。昭和天皇から11回も御嘉賞を贈られたというのも頷ける。その敢闘ぶりに陛下も驚き、日本国民の心も揺さぶったのであろう。米軍は、心の底から思ったに違いない。「こんな奴らとは、二度と戦いたくない」と。それはまた、特攻で散華された方々が思わしめたことと同じであろう。戦後日本の平和を守ってきたのは、憲法9条でも日米同盟でもなく、このような先人達の精神・戦いぶりだったのではあるまいか。私の魂も揺さぶられていた。
首筋に垂れてきた水滴に驚き、目を開けた。
つづいて、中川大佐終焉の地がその一角にある、ペリリュー島でもっとも高い大山(約80m)の上へ。山と名はついているものの、実質的には丘と言ったほうが適当だろう。狭くて急な階段を登ると、いつしか真っ青に晴れ上がった空の下、突如360度、視界が広がった。眼下に見渡す美しい島と海に、思わず歓声を上げてしまう。しかし、当時は、この美しいジャングルの緑も完膚なきまでに砲撃され、焼き尽くされ、岩肌が剥き出しになった。
一隅にあった米軍第323歩兵連隊の慰霊モニュメントには、「ここで死せる人々を忘れないために」と記されていた。米軍は第一次上陸作戦で第1海兵師団が損耗率54%に上って撤収。第7海兵連隊も50%を越えて戦闘不能に陥り、不本意ながら陸軍の増援を受け入れざるを得なかったという。
大山へと上る際、小道の両サイドのそこここに、中央で紅白に塗り分けられた杭を見た。白い側が地雷除去済み、赤い側が未確認という目印だ。実は私、2ヶ月前の東富士演習場での第1空挺団の訓練取材でこれを知ったばかりだった。意味がわかったのはちょっと嬉しかったが、戦後72年経た今なおこれが現実だという事実には言葉もない。
ペリリュー島の締めくくりに、ペリリュー神社を参拝した。神前で、『英霊の言乃葉』(5)(8)からパラオで散華された陸軍軍曹(南洋庁訓導) 仲西貞夫命、海軍少佐(回天特別攻撃隊菊水隊) 村上克巴命の言乃葉を朗読させて頂く。
島民や慰霊に訪れた日本人によって清掃されているという神社は、手入れが行き届いていて嬉しく思った。
神社の一角にある碑には、太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督のこんな言葉が刻まれていた。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢に愛国心を持って戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
日本軍の驚異的な力の源を知った米軍は、ペリリューを「天皇の島」と呼んだ。
そのような激戦が繰り広げられたとは到底思えないほど静かで穏やかな海に、日が落ちていく。燃え上がるような夕暮れは、息を飲むほど美しく、「西方浄土」という言葉を思い起こした。戦いが始まる前には、先人達もこのような夕陽を目にすることができたのだろうか。