やおよろずの森

私たちは、日本人が古来受け継いできた自然と人間が調和する社会を広め、後世に残すため、様々な活動を行う民間団体です。

活動報告 2012年

2012/06/04 尖閣レポート 平成 23 年秋 大正島・久場島編その②

2012/03/25 尖閣レポート 平成 23 年秋 大正島・久場島編その①

2012/01/23 西表島鹿川湾ビーチクリーンレポート

尖閣レポート 平成 23 年秋 大正島・久場島編その②

2012.6.6

大正島
石垣から11時間かけてようやくたどり着いた大正島

16 時。気分を改め、西へ 80km のところにある久場島を目指す 。 穏やかだった天候が崩れ、雨が降り、波も荒くなってくる。とはいえ、体もだいぶ慣れてきて、時折頭はぶつけつつも、周期的な揺れが馬に乗っているようで、ちょっとばかり楽しくなってきた。

16 時 20 分。衛星電話が鳴った。電話は、船長の足元、私の右斜め後ろに設置されている。エンジンの音が煩いため、位置関係からしていつも最初に気がつくのは私だ。受話器をとると、最初ちょっと聞きづらかったが、「巡視艇みずきの○○です。(名乗ってくれたようだが、聞き取れなかった)」

「だいぶ荒れてきましたけど、大丈夫ですか?」

「良福丸から、無線が通じないということで伝言です。『魚釣島南の海域を目指してください』」

「魚釣島の南の海域ですね。了解しました。ありがとうございました」

そのまま大声で船長に伝える。

久場島で待ち合わせる予定だった良福丸。待ちくたびれて魚釣島に移動したんだろうか。それとも、波が高くて久場島には向かえなかったんだろうか。そのときは判然としなかったが、後に、そもそも久場島には行っていなかったと判明。地元では魚釣島をクバ島と呼ぶ。クバの木が多いからだそうだが、なんともややこしい。それで勘違いしたのかもしれない。

波しぶきに霞む窓の向こうに、途中 2 度航空機を見た。一機目は海上自衛隊の P-3C 哨戒機だったように見えたが、二度目のはもう少し派手な機体だったような気がする。が、確認する間もなく、厚い雲に吸い込まれていった。

17 時 20 分。久場島到着。南側をゆっくりと通過する。米軍の射爆場だったというから荒涼とした島を想像していたのだが、予想に反し、緑に覆われたたおやかな姿をしていた。水も出そう。魚釣島に上陸経験もある山本皓一さんによると、人が植えたクバの木がずらりと並んでいるのが見えるし、畑だったような四角く草地になっている場所もある。水際はほとんど岩だったが、一か所上陸できそうな小さな砂浜が目に入った。

17 時 40 分。「あと 30 分で暗くなるよ」と吉本船長に促され、帰路につく。明るいうちの合流は叶わなかったが、魚釣島は帰り道とのこと。良福丸と出会えることを期待しつつ先を急ぐ。

18 時。あっという間に暗くなった。空腹を覚え始めたが、食糧の入った段ボールのある後部船室は、揺れのせいで僅か 4 ~ 5m 程が、精神的には 400 ~ 500 mも離れているように感じられてしまう。しかも、途中には大きな段差あり、横たわる人あり、散らばる荷物ありで、おいそれとは取りに行く気になれないのだ。と、後部からにょきっと腕が伸びてきてアーモンドチョコが差し入れられた。直也君からだ。なんという絶妙なタイミング! 17 歳ながらにして流石海の男、船上の人の気持ちを知り尽くしている。

写真:17歳の漁師の直也くん
-第一桜丸で釣りをする17歳の漁師、直也くん

20 時。真っ暗だった海にいくつかライトが見えた。良福丸かと思い接近していくが、なかなか近づけない。そのうちに、光が大きくなり、我々よりもずっと大きな船だと判明。中国船かと色めきたつ水島さんら。が、大きな探照灯の光に見覚えがあった。そうだ、以前チャンネル桜の映像で見た水産庁の船に違いないと思い、「水産庁じゃないですか?」と一言。その場では確証は持てなかったが、後に煙突に示されたマークから確認がとれた。

大正島の前で水島さんと
-大正島の前で水島さんと

帰路は追い風だから、「飛ばし屋」と噂の吉本船長(「あの人は、エンジンふかせるだけふかす」と砂川船長談)は飛ばすんだろうなと思いきや、 15 ノットくらいでなんだかゆっくり走っている。(実は、このとき後部に若干の浸水があったことを後に知った。)日付が変わる前に帰れるかと思っていたが、どうやらそうもいかなそうだ。

再び、しばらく闇の中を走っていたが、両サイドに島の灯りが見えてきた。左は石垣、右は西表か。携帯電話の電波が久々に届くようになり、早速陸で待つプロデューサーのなべさんこと渡辺さんから衛星電話が入った。「今、どの辺?」「あと 1 時間くらいです」「もうちょっと近くなったら連絡ちょうだい」。心配しながら、待っていてくれたのだろう。

お腹がすいたので、申し訳ないと思いつつ、後部船室からパンの入った段ボールをリレーしてもらう。コーヒーロールを 1 つ食べたら、空腹は収まった。揺れているので、まだ缶コーヒーを飲む自信はない。以降、甘いものがほしくなったときは、足元に転がっている 2l ボトル入りの甘い紅茶で慎重に喉を潤した。一日、飲料は基本的に持参した 500ml の水 1 本にプラスして、その辺にあるものをちびりちびりと摂取していただけ。お茶のボトルは 2 度にわたって、顔にぶちまける羽目になって、懲りた。こんな場所でこそ、トレイルランのときに使うキャメルバッグ(ホース状のストローをくわえて給水するバッグ)が威力を発揮しそうだ。

写真:魚を捌く
-釣った魚を手際よく捌く吉本船長と直也くん

「あと 30 分」のところで、なべさんに電話し、最終的に入港するのが登野城(とのしろ)漁港であることを伝える。良福丸も近くを走っていると聞いて、ちょっとほっとする。

なんども頭をぶつけてきた鍵を外し、初めて左前の窓を開けた。風が心地よい。石垣島の町の灯りの上にも、灯りがあることを発見。星だ! ずっと天気には恵まれなかったので、よもや星空を見上げられるとは期待していなかったが、少し身を乗り出すと、なんと行く手にはオリオン座が輝いていた!

25 時 40 分。漁港が近付いてきたところで、船長たちが甲板に出て操縦を始めたので、私も外に出る。水島さんを見ると、昨日買ったツバ広の麦わら帽子を顔にかけ、チェアで眠っているようだ。もう少しそっとしておこう。とりあえず、ひとりでレポートをと思い、カメラに向かって喋っている最中にパラパラと雨垂れが落ちてきた、……と思う間もなく、土砂降りになる。開いていた窓から吹き込んだ雨に、船内のものもびっしょり。合羽を上しか着ていなかったので、私の下半身もぐっしょり。嗚呼。

写真:つかまったいた窓枠
-揺れが激しい時にいつもつかまっていた窓枠

登野城漁港に返る。ヘッドライトを照明代わりに、なべさんが車で迎えてくれる。とにかくバケツをひっくり返したような雨になってしまったため、吉本さんや直也君への挨拶もそこそこに後ろ髪惹かれつつ、車に乗り込んだ。

いったん、ホテルへに荷物を置き、タオルだけ持って、良福丸を迎えに八重山漁港へ。既に接岸していた良福丸は、魚釣島沖で 2 時間ほど漁をし、 1m を優に超すサワラ 3 尾、イソマグロ 1 尾、カツオ、キハダマグロなど 10 数尾の見事な釣果を上げていた。金城さんによると、入れ食いだったそうで、「こんなのはこの辺では釣れないよ」と尖閣の漁場としての豊かさに赤銅色の目元をほころばせていた。

今回の経験を通じて実感したのは、漁師たちも口々にその必要性を訴える避難港、無線基地の重要性だ。

絶海の孤島である尖閣諸島は、ひとたび海に出てしまえば、帰港するまで逃げ場がない。石垣から片道 170km 、燃料代もバカにならないため、採算が合うように、一度出たら 2 泊 3 日程度の漁をするケースが多いという。停泊は波の穏やかな魚釣島南側などを利用するものの、「おろし風」という強風により、いつのまにか島に吸い寄せられたり、ひどいときには錨を下ろしていても切れてしまったりすることがあるそうだ。私たち自身も 23 時間近く波に弄ばれ続けて、羽を休める場所がないということがいかなることか、身をもって味わった。

また無線基地についても、僚船である良福丸と連絡がとれなかったことにより、図らずも、その必要性を体感することになった。海保が衛星電話で中継してくれたからよかったものの、そうでなければ、互いの身を案じつつも私達は最後まで一度も連絡を取り合うことができなかったはずである。 避難港、無線基地の整備は急務であろう。

写真:久場島
-緑豊かでたおやかな久場島

尖閣レポート 平成 23 年秋 大正島・久場島編その①

2012.3.25

”日本文化チャンネル桜 2011.11.3 報道 より”
平成 23 年秋。「頑張れ日本!全国行動委員会」の募金によって購入された漁船・第一桜丸で、尖閣を目指すことになった。実は、 7 月初旬にも機会があったのだが、そのときは私の乗船が海上保安庁に認められず、魚釣島へと旅立つ水島幹事長らを伴走船で 20 海里まで見送るのに留まった。

あれから 3 カ月。海保との信頼関係も築かれたのか、今回は、石垣・宮古・与那国島からの漁船団 18 隻が尖閣諸島沖で集団操業するのに、その一員の「漁師見習い」として同行を許されたのである。

切望していた尖閣行きがついに叶うと胸を膨らませて東京を発ったのは、 10 月 24 日(月)。順調にいけば 26 日にも出港のはずが、日に日に変わる波と風の予報に翻弄され、最終的に石垣の港を出たのは 11 月 1 日(火)の深夜 3 時であった。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でなと詠んだ額田王にあやかりたいところだったが、現実にはいつまでも経っても凪いでくれない海にしびれを切らし、比較的大型の第一桜丸とマグロ船第一良福丸の 2 隻だけで、「穏やかではない海」に出ることにしたのである。間の悪いことに、体調を崩していた。直前の雪降るロシアでの武道講習を無事に乗り切って気が緩んでいたらしい。夏の余韻が色濃く残る南西諸島で凪待ちしている間に風邪をひき、すっかり声が枯れてしまっている。レポートする身としては、情けないやら恥ずかしいやらだったが、逆に「艶っぽくていい」という説もあれば、「オカマみたい」「蓮舫みたい」という説もあり複雑であった。いずれにしても、額田王にはほど遠い。

11 月 1 日午前 2 時 30 分。石垣島新川漁港へ。闇の中に白く浮かび上がる桜丸船上に、風を受けた日の丸がなびいている。予想より多くの人がいると思ったら、各種検査を行う海上保安庁や公安の職員、今回は出港を見送った潜水漁師の砂川さんやその友人、八重山防衛協会の三木会長ほか関係者が集まってくれていた。酔った砂川さんが、「がんばれよ」と握手してくる。海を知り尽くし、しかも普段は口の悪い彼にそう激励されると、行く手の困難さを物語っているようで、うれしいのと同時に、覚悟せねばとの思いにもなる。

3 時 5 分、出港。パラパラと降りだした雨の中、砂川さんたちが、シャンパン代わりに缶ビールを振り、我々にかけながら見送ってくれた。
北北東へ 170km 、これまで海上からカメラに収められたことがないであろう大正島を目指す桜丸に乗りこんだのは、中山市長の同級生でもある吉本清一船長、 17 歳の大嶺直也君、頑張れ日本全国行動委員会幹事長の水島総さん、国境カメラマンの山本皓一さん、阿久津有亮カメラマン、そして私(葛城奈海)の計 6 名。

北へ 180km の久場島を目指す良福丸は、又吉秀一船長と補佐役の金城正治さん、平田直芳さん、尖閣を歌う歌手の島仲久さんの 4 名。
桜丸が、その気になれば 30 ノット出せる一方で、良福丸は 12 ノット。速力の差を考慮して、我々だけで大正島を回った後、約 80km 西にある久場島で合流する計画だった。
桜丸の後部に付けられたテントの下に、水島さんとともにディレクターズチェア(布張りのパイプ椅子)を並べて後ろ向きに座る。テントもチェアも夏の尖閣行きを踏まえて装備されたものだ。後に続く良福丸を眺めながら快適だなと思ったのも束の間、雨が激しくなり、早速テントが威力を発揮。体調に自信のない私は先に船内へ入った。後部船室で軽く荷物整理し、ごみ袋をテープで壁に貼り付けるなどする。

そのままトンネルのような狭い室内通路をくぐりぬけて操縦室でもある前部船室へ。

桜丸は操縦席が 1.5m ほどの高さにあり、その足元をすり抜けると、前方が空間になっている。最前部の石の上に設置した香取大神宮のお札を祀った神棚に二礼二拍手一礼。船出まで漕ぎつけられたことに感謝し、航海の安全を祈る。

港を出てほどなく、吉本船長から「予想よりだいぶ時間かかるよ」と、予報よりもさらに時化ていることを暗示する言葉があった。 北からの風を、船首からまともに“くらう”らしい。 「夜の海に落ちたら助けられませんから、もう少ししたら中に入っててください」と直也君。良福丸の平田さんからも、「あと 30 分ほどでだいぶ時化てくるよ」と携帯電話が入る。

前部船室の横幅は 1.5m ほど。そのやや左寄りにチェアを設置。絨毯張りの床に座っていると外が見えないが、これで視界が開けた。が、背後に直径 20cm はあるコンパス(方位磁石)を乗せた板があり、それが背中にあたる。強い衝撃を受けたら脊椎をやられそうと危惧して、その辺に転がっていたドーナツ状の浮きをクッション代わりに背にあてた。

30分弱で西表の島影を抜けると、 北西からのうねりを受け始め、 早くも大きく揺れ出した。どこかに掴まっていないとふっとんでいきそうになるのだが、乗用車と違って、そう都合よく掴むところはない。仕方なく、左手を伸ばしたところにあった窓枠の薄い鉄板を指で掴む。上下左右前後に揺られて時々腰が浮き、ドーンと突き上げるような衝撃が襲う。室内ばかり見ていると、あっという間に酔いそうなので、外を見ようとするも、雨と波飛沫で曇った窓ガラスの向こうは闇。室内灯がついていることもあって、ほとんど何も見えない。が、目を凝らすと、ぼーっと微かに白い舳先が浮かび上がっている。それを見逃したら最後、スパイラルの中に落ち込んでいってしまいそうな気がして、ひたすら凝視し続けた。

我ながら、モードが切り替わり、かっと目を見開いているのがわかる。船で気持ち悪くなった経験なら何度でもある。しかし今回、心に期するものがあった。あれだけ待ち望んでいた尖閣に向けて、ついに船出したのだ。「頑張れ日本 ! 全国行動委員会」のみなさんの思いも背負っている。そう簡単に酔うわけにはいかなし、例え酔って吐いたとしても、へろへろになるわけにはいかない。心中密かに「酔っても、どこまで気力を失わずにいられるか」、自分をジャッジしたいとも思っていた。

波は徐々にワイルドさを増し、ドーンと急に突き落とされるときのお尻への衝撃を緩和するために足を踏ん張らずにはいられなくなってくる。船内のものが揺れ動き、床を滑っていく。こうなってくると、たかが 1m 移動することはおろか、背中のすぐ後ろにあるコンパスに首を向けることさえままならない。たまに窓の錠に頭をぶつけた。眠ってしまいたいが、目をつぶると気持ちが悪くなりそうだ。

それでも強引にコンパスを振りかえると、進路は N と NE の間。船長によると、このときの波は 3.5 ~ 4m くらいだったという。揺れの激しさに刺激されてか頭の中がフル回転し、いろいろな思いが去来する。なんだかよくわからないが、様々な人への感謝の思いが湧き上がり、優しい気持ちになっていた。この船を選んだのは、私の信頼する船乗りである。別に沈没の危険性を感じたわけではないが、とはいえ、身を委ねているのが信頼できる人が選んでくれた船であることは大きな安心感に繋がっていた。九州から廻航してきた砂川さんも、 28m の風で生きるか死ぬかの思いをしたときにも沈まなかったことから「この船は強いよ」と言っていたっけ。

そうこうするうちに、まどろんでいたらしい。

6時半すぎ。ふと気がつくと、 薄明を迎えていた。ただただ闇一色だった世界が、乱れた水平線によって灰色の空と鉛色の海に分離されている 。視界が広がり、少し気持ちが楽になった。

7時前には日が昇ったはずだが、残念ながら曇天に阻まれて確認はできない。

「大正島まで何分の何くらい来てますか?」

と吉本船長に聞くと、

「 3 分の 1 強」

との答え。

「…… !? 」

北風を考慮しても 7 時間くらいで着くだろうと見込んでいたので、出港して 4 時間なら半分強まで来ていると期待していたのだが……。それでも、徐々に波は収まってきているようだ。

後部船室に陣取っている水島さんが、後部の扉を開放し、阿久津カメラマンを呼んでレポートしていた。這うように移動して、トンネル状の中間部で私もコメント。なにせちょっとでも動けば振り子のように体が持っていかれるので、喋っている最中にも一度バランスを崩して「うわぁー」と声を上げてしまった。

前部船室に戻ってきた阿久津カメラマンは土色の顔をして、ぐったりと横たわっている。無理もない。乗っているだけで十分酔える状況なのに、モニター画面を見つめながら撮影しているのだ。私だったら、とうに吐いているだろう。見ると、移動中はもちろん、横たわって目を閉じている間も、常にカメラを抱きかかえるようにして衝撃から守っている。カメラマン魂を感じた瞬間だった。

夜明けからほどない頃、カモメに似た白い鳥が飛んでいるのが見えた。しばらくすると、いなくなり、以降、視界に入るのは、ただひたすら灰色の空と鉛色の海。一度、漂流しているペットボトルを 1 本と、漁具のブイをひとつ見た。 4 日前には西表島北岸で漂着ごみのレポートをし、前日には同島南岸で漂着ごみ拾いに取材をかねて参加したばかり。漂着した姿はやっかいものそのものだったが、荒波を漂う姿には、ごみながら孤独さを感じてしまう。

目の前の波に遮られ、水平線は見えたり見えなかったり。波の彼方に時折幻の島を見た。波の合間に視界が開けた瞬間、水平線上に黒っぽく島影が見えるのだ。しかし、次の波に塞がれた視界が再び開けると、そこにもうその島はない。そんなことが、なんどかあった。

13 時。エンジンの回転音が落ちた。「島が見える」と船長。天候も回復してきている。外に出ると、遠く水平線上に、ぽっかりと島陰が浮かんでいた。今度こそ、本物の大正島だ!

それから、約 1 時間。私達は、ついに眼前に大正島を見上げていた。島のほとんどは岩肌ががっつりと剥き出しになり、緑はちょぼちょぼと、ところどころに草が生えているだけ。赤尾礁とも呼ばれることから、赤っぽい島を想像していたら、岩のあちこちに白いものが滝のように流れて固まり、老獪な印象を与えていた。どうやらそれは、カツオドリをはじめとする鳥達の糞らしかった。

ゆっくりと時計回りに島を一周する。北西部の低いところに筋状になった赤い層を確認できた。このあたりが名の由来なのだろう。

東側から風下にあたる南側に回り込むと、波も穏やかになる。鳥たちがたくさん飛んでいる。さらに近づくと、ちょうど水面あたりに平板な岩礁がある。この頃、瞬間的に青空が覗いた。黒かった海の色が群青色に変わる。岩にあたって砕ける白い飛沫の下は、吸い込まれそうに明るい、神秘的な水色だ。

と、海保の巡視艇みずきが島影から姿を現した。その姿は、我々を警戒するようでもあり、見守るようでもあった。それまで付かず離れずの距離だったが、だいぶ島に接近したこのとき、万が一の上陸を警戒したのだろうか。

船を漂わせながら、吉本船長と直也君が手際よく船尾で釣りを始めた。コイル状に巻かれた縄を海に流す。「引き縄」という漁法で餌は疑似餌のみ。 50m ほど海に流すと、リズムよく引っ張ったり緩めたりを繰り返して魚を誘う。前回は、魚釣島前で、あっという間に 1.3m はあろうかという GT (ロウニンアジ)を釣り上げたという直也君だが、今回はそう簡単にはかからなかった。それでも、「筋トレ」と笑いながら腕を動かしている。私も体験させてもらったが、 1 、 2 回ならともかく、ずっと続けているのはけっこう大変だなと感じるくらいの負荷があった。

甲板でお昼にすることにした。いつの間にか、直也君が引き縄でツンブリという銀色の魚を 1 匹釣り上げている。目の前でも、竿をしならせて鮮やかな赤魚、バラハタを一匹上げた。体に斑点があるが、「この斑点にひとつでも黒いのがあったら毒」と吉本船長。幸い目の前のものに黒点はない。氷水の入った大きなクーラーボックスに入れて一瞬冷やした後に、ふたりが鮮やかな手つきで魚を捌いてくれた。さっきまで歩いていたところをまな板にし、かなり年季が入って変色した軍手で直接掴んでいるような気もするが、潮で洗えばお構いなし。刺身に使わなかった頭やヒレはそのままポイッと海に返している。酢醤油できゅっとしめるという慣れない味付けの刺身であったが、美味であった。あとは、スーパーで買ってきたお握りやミニトマトを食べる。朝食はとても食べる気になれずみんな抜いていたし、お昼としても遅かったけれど、お握りをひとつ食べたら満足してしまう。

考えてみたら、出港してから 12 時間、トイレにも一度も行っていない。なのに、せっぱつまってもいない。けれど、考えてみたら、こんなに波が穏やかなのは今しかないかもと思い、桜丸に後から付けてもらったトイレを初めて使用した。穏やかだとはいえ、揺れている。トイレは通常のものより、部屋も便座そのものも大分小さい。当然ながら電車のトイレのように掴まるところもないので、頭がごちごちと壁に当たった。用を足して履いているものをたくしあげようとしても、なかなか思うようにいかない。もたついているうちに大きな衝撃が来て、お尻が背面の窓に押しつけられた。窓の外 1m くらいのところには、船長が立っていたような気がする。ガラスに押しつけられたお尻を万が一目撃されていたら、……けっこう笑える。まあ、角度的に言っても、船長の人柄から言っても、あまりその心配はなさそうだったけれど。結局、 23 時間いた海の上でトイレに入ったのは、この 1 度きりだった。無理したわけでもないところが不思議だが、体もモードが切り替わっていたような気がして、我が体ながらちょっとほめてやりたくなる。 (つづく)

西表島鹿川湾ビーチクリーンレポート

2012.1.23

中野海岸で森本さんにインタビューをした 3 日後、今度は西表島南部の鹿川湾で八重山環境ネットワークによる清掃活動が行われると聞き、同行した。

八重山環境ネットワークとは、石垣島・西表島など八重山諸島の素晴らしい自然環境の保全・復元を目指すネットワークで、海上保安庁などの行政、民間団体、個人活動家から成っている。

この日参加したのは、石垣・西表両島からそれぞれ約 25 名ずつの計約 50 名。鹿川湾へは陸路がないため、石垣からの参加者は海上保安庁の小型巡視艇「あだん」に乗って現地を目指した。我々は、尖閣防衛のため「頑張れ日本 ! 全国行動委員会」に寄せられた募金で購入した漁船「第一桜丸」で後を追う。青空の下、潮風を頬に受けながら快調に飛ばすと、 30 分ほどで西表島だ。島を右手に見ながらスピードを落とし、さらに進むと、エメラルドグリーンに輝く湾を抱いた白い浜が現れた。もこもこと生命力が湧き出でるような原生林に囲まれた静かな砂浜に、太陽と蝉の声が降り注いでいる。浜には、漂着ごみがちらほら目に入るものの、予想に比べると遥かに少ない。接岸する港もないので、湾に入ったところで、小型の舟に乗り換え、ピストン輸送で浜まで運んでもらった。

先に到着していた西表島からの参加者(白浜、大原各港から船で集結)が、木陰で我々を待ち受けている。石垣組が合流したところで、事務局を務める海保の方から挨拶があり、諸注意が伝えられた後、早速作業に取り掛かった。

思い思いの場所に散っていく参加者たちに交じって、私もまずは手近な藪に入ってみた。 遠目にはあまり目につかなかったごみも、草を分け、岩の間を覗けば、出るは出るは……。発泡スチロール、ペットボトル、漁具(ブイ、網)、ビーチサンダル、プラスチック片、小瓶等などが次々に現れ、海から見えていたものは、氷山の一角でしかなかったことが判明。作業は主として、男性陣が植物の中に突っ込んでその根元からごみを引っ張り出して浜へ放り投げ、それを女性陣が分別して袋に入れるという役割分担で行われている。森本さんの話を聞いた直後だけに、細かく割れた発泡スチロールもなるべく拾おうとするのだけれど、細かくなればなるほど際限なくなってしまうので、流れ着いてから極力時間をおかずに回収することの必要性を痛感する。

今回特に目についたのが、砂浜に埋まった魚網の数々だ。大物になると、男性が 7 ~ 8 人がかりで砂を掘りつつ声を合わせて引っ張り出そうにも、「そう簡単には思うようにはならないからねー」と言わんばかりに砂地の奥深くまで入り込んでいる。数十分の奮闘の挙句、にっちもさっちもいかない深い部分はナイフで切って取り出していた。これは地上部でも同様で、植物の成長とともに複雑に絡まった網をあますところなく引き出すのは至難の技。やむなく裁断する光景があちこちで見られた。

もう一つ印象に残ったのが、波の威力だ。岩場で芋づる式に大量のペットボトルを発見したのだが、岩と岩の間に食い込んだものは、人力では引き出せないほど強力にはまっている。被災地で見た、車に刺さる木材、引きはがされた線路が脳裏をよぎった。

作業の合間に参加者の話を聞いたところ、林野庁や水産庁など仕事としても西表の自然にかかわっている方やその家族が多いようだった。西表島組の中には、私が4ヶ月前に滞在した金城旅館の女将、島袋さんも居て、思いがけない再会を喜びあう。宿でも島の食材を生かした料理をふるまっている彼女は、休憩時間を利用して植物や貝を嬉々としての採取していた一方で、こうした活動に生粋の島民の参加者が少ないのを残念そうにしていた。環境活動に積極的なのは、おしなべて島外から移住してきた人たちなのだそうだ。

昼食後、有志によるペットボトルの生産国籍調査が行われた。この日回収されたペットボトル 739 本中、バーコードによって国籍が判明したのは 211 本。その内訳は以下の通り。

1 中国 30 %

2 ベトナム 25 %

3 台湾 17 %

4 マレーシア 10 %

5 日本 6.6 %

6 シンガポール 3.3 %

7 インドネシア 0.9 %

8 フィリピン、ニュージーランド、韓国 各 0.5 %

意外だったのは、ベトナムが 2 位に入っていたこと。これは、島の南岸ということで、夏場に南からの漂流物が多く打ち上げられることによるもの。それから、朝鮮半島からのものがなかったこと。実は、 9 年前にこの場所の調査を始めた時点では、韓国は第 3 位(約 20 %)だったそうだ。それが、国を挙げての取り組みの結果、急減したという。まさに、成せば成るのだ。

ごみの清掃はもちろん大切だが、より本質的には、こうしたごみが出なくなる対策がとられるべきであるのは言うまでもない。科学技術の進化は結構なことだが、ものを作る際には、その終末段階、つまり廃棄まできちんと責任を持てるようになって初めて、そのものを世に出すべきなのではあるまいか。原発然りである。そこまでできないのであれば、「分不相応」と心得て、さらなる技術の進歩を待つべきであろうと私は思う。同時に、古来日本人が受け継いできた生活様式・文化にも、廃棄物を少なくするヒント、知恵がある。「もったいない」の精神を尊び、「箪笥は粉になるまで使う」という生活スタイルが、世界規模での人類の課題を解決する、古いようで実は新しい知恵なのではなかろうか。

午後 2 時。回収したごみを満載した船を見送って、浜が再び静けさを取り戻す。住む人もいないのに、人間の出したごみによって穢されている自然。染みいるように美しい鹿川湾を目に焼きつけながら、このかけがえのない宝を後世に残していくための知恵と行動の必要性を思った。

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